記者発表

有機分子で初めてスピン移行に成功 ~分子を利用した集積量子演算への第一歩~

投稿日:2019/12/13 更新日:2023/01/05
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東京大学
東北大学
大阪大学
分子科学研究所
高輝度光科学研究センター

発表者

蒲生  寛武(東北大学大学院工学研究科 博士後期課程3年生)
下瀬  弘輝(大阪大学大学院基礎工学研究科 博士前期課程2年生:研究当時)
榎   涼斗(東北大学大学院工学研究科 博士前期課程2年生:研究当時)
南谷  英美(分子科学研究所 准教授)
塩足  亮隼(東京大学大学院新領域創成科学研究科 助教)
小谷  佳範(高輝度光科学研究センター 研究員)
豊木 研太郎(高輝度光科学研究センター 博士研究員:研究当時)
中村  哲也(高輝度光科学研究センター グループリーダー)
杉本  宜昭(東京大学大学院新領域創成科学研究科 准教授)
好田    誠(東北大学大学院工学研究科 准教授)
新田  淳作(東北大学大学院工学研究科 教授)
三輪  真嗣(東京大学物性研究所 准教授/大阪大学大学院基礎工学研究科 招へい准教授兼任)

 

発表のポイント

◆ 磁石の性質を持つ有機分子に対し、スピントロニクスの主要原理であるスピン移行を起こすことに初めて成功した。

◆ スピン移行を用いたトルクにより、磁石の性質を持つ分子を電流で制御できる。

◆ 本手法は分子を利用した量子演算の初期化に使える可能性がある。

 

発表概要

東京大学物性研究所の三輪真嗣准教授は東北大学大学院工学研究科の蒲生寛武大学院生、榎涼斗大学院生(研究当時)、好田誠准教授、新田淳作教授、大阪大学大学院基礎工学研究科の下瀬弘輝大学院生(研究当時)、分子科学研究所の南谷英美准教授、東京大学大学院新領域創成科学研究科の塩足亮隼助教杉本宜昭准教授、高輝度光科学研究センターの小谷佳範研究員、豊木研太郎博士研究員、中村哲也グループリーダーと共同で、白金から磁石としての性質を持つ分子へのスピン移行(注1)を実証しました。青や緑の顔料であるフタロシアニン(注2)は良質な分子磁性体(注3)としても知られています。本研究グループは白金の表面にフタロシアニンを吸着させた細線がスピンホール磁気抵抗効果(注4)を示すことを見出し、白金から分子へのスピン移行が起きていることを確かめました。

スピン移行はスピントロニクス(注5)研究における要素技術の一つであり、不揮発性メモリMRAMの主要原理として応用されています。本成果は、これまで金属磁石でのみ確認されていたスピン移行を有機分子で実証した初めての例になります。また、スピン移行を用いたトルクにより磁石の性質を持つ分子を電流で制御できることを意味します。この技術は将来の分子を利用した集積量子演算の初期化技術として使える可能性があります。

本研究成果は、2019年12月12日にNano Letters誌に掲載されました。

 

発表内容

研究の背景

IT機器の低消費電力化は社会生活を豊かにしつつ地球環境を維持する上で極めて重要な課題です。この解決に注力する研究分野の一つがスピントロニクスです。スピントロニクスとは電子の持つ電荷に加えて、スピン(磁石としての性質)を積極的に利用する、次世代のエレクトロニクス分野であり世界的に研究開発が活発に進んでいます。キーテクノロジーとして、情報維持に電力を必要としない不揮発性メモリやロジック回路が挙げられます。現在は大きさが数十ナノメートル(注6)程度の金属磁石の磁極(N極とS極)を情報源(1と0)とした研究が盛んに行われています。

スピンを演算などに利用するためには、スピン状態のコヒーレンス(注7)を少なくともマイクロ秒程度保つことが必要です。しかし金属磁石では、ピコ秒程度と短く、古典力学的な性質を示すに留まり、近年注目されている量子演算への応用は困難です。一方、分子中のスピンはマイクロ秒と比較的長い間コヒーレンスを保つことがわかっており、注目を集めています。しかし分子スピンの制御方法、特に集積回路に応用するために必須である電子状態の電気的検出手法及び制御手法はありませんでした。

 

研究内容

今回、本研究グループは道路標識の青色顔料としても利用されスピンも有するフタロシアニン分子を吸着させた白金細線において、白金からフタロシアニンにスピンが移行する事を、スピンホール磁気抵抗効果により見出しました。スピンホール磁気抵抗効果はフタロシアニンと白金との間のスピン移行効果により生じています。そのため、この結果は電流によって分子の持つスピンの制御を行えることを示しています。

実験としてはまず鉄(II)フタロシアニン分子(図1a)を厚さ6ナノメートルの白金表面に吸着させ(図1b)、細線デバイスに加工しました(図1c)。次に、鉄(II)フタロシアニンの持つスピンがデバイス加工後も保持されている事を大型放射光施設SPring-8(注8)の軟X線固体分光ビームラインBL25SUで得られるX線を用いた測定と理論計算によって確認しました。

このデバイスに外部磁場の向きを変えながら、電気抵抗の変化を測定した結果、磁場をかける方向により、電気抵抗変化が異なることがわかりました(図2)。磁場と電流が平行の条件Aの時には、電気抵抗が大きくなり、磁場を電流に対して垂直にかけた条件Bの時に電気抵抗が小さくなっています。これは、白金を流れるスピンが鉄(II)フタロシアニンに影響を与える事で電気抵抗が変化したためで、スピンホール磁気抵抗効果特有の現象です。これにより白金に生成されたスピン流(注9)から、鉄(II)フタロシアニンへスピン移行が生じたと結論できます。

社会的意義

本研究は、有機分子に対するスピン移行を実証した初めての例です。スピン移行はスピントロニクス研究において最も重要な要素技術の一つです。本研究により古典的な金属磁石だけでなく、有機分子に対してもスピン移行がはたらくことが示されました。有機分子は、コヒーレンス保持時間が十分に長いため、将来的に分子のスピン移行を用いた量子コンピュータのビット初期化技術として使える可能性があります。

本研究は文部科学省 科学研究費補助金 (15H05699、15H02099、15H05854、18H03880)等の支援を受けて実施しました。

発表雑誌

雑誌名: Nano Letters

論文タイトル: Detection of spin-transfer from metal to molecule by magnetoresistance measurement

著者: Hiromu Gamou, Koki Shimose, Ryoto Enoki, Emi Minamitani, Akitoshi Shiotari, Yoshinori Kotani, Kentaro Toyoki, Tetsuya Nakamura,     Yoshiaki Sugimoto, Makoto Kohda, Junsaku Nitta and Shinji Miwa*

DOI番号:http://dx.doi.org/10.1021/acs.nanolett.9b03110

用語解説

(注1)スピン移行:
ある物質から他の物質へ電子の磁石としての性質であるスピンが受け渡される現象を指します。電子における電荷としての性質の流れを電流と呼び、電子におけるスピンとしての性質の流れをスピン流と呼びます。スピン流から磁石へのスピン移行効果を使うと電流で磁石の磁極を反転させることができます。 

(注2)フタロシアニン:
新幹線の車体の青色で有名な有機顔料の一種で、平面・環状の構造を持つ分子です。環の中心に様々な元素を取り込んで安定な錯体を形成することができます。中心元素を置換すると様々な性質を持たせることができるため、基礎研究でも広く用いられています。本研究ではフタロシアニン分子が磁石としての性質を持つことに注目して研究に用いました。

 (注3)分子磁性体:
有機分子から構成され、スピン(磁石としての性質)を持つ物質です。

(注4)スピンホール磁気抵抗効果:
磁気抵抗効果とは外部磁場を印加すると物質の電気抵抗が変化する現象の総称です。スピンホール磁気抵抗効果は数々あるスピントロニクス現象の一種であり、異種材料を接合させた系に電流を流した時、異種材料間のスピン移行効果に起因して生じます。

(注5)スピントロニクス:
金属磁石を利用するエレクトロニクス技術。電子が持つ磁石としての性質である「スピン」を電荷とともに利用することで、これまでの技術では実現できなかった新しい機能を持つ電子デバイスの創出を目指しています。代表的な電子デバイスとしては超高密度ハードディスクドライブ用磁気ヘッドや不揮発性磁気メモリMRAMがあります。

(注6)ナノメートル:
1ナノメートルは1ミリメートルの100万分の1です。

(注7)コヒーレンス:
原子レベルで小さな物質は古典力学では表せない量子的な性質、具体的には波としての性質を持ちます。波の持つ性質の一つで位相のそろい具合、つまり干渉のしやすさをコヒーレンスといいます。例えば近年話題の量子コンピュータではコヒーレンスが長い系をビットとして用いることが重要です。

(注8)大型放射光施設SPring-8:
兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す理化学研究所の施設で、利用者支援等は高輝度光科学研究センターが行っています。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeV(ギガ電子ボルト)に由来。電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生する、細く強力な電磁波(放射光)を用いて幅広い研究が行われています。

(注9)スピン流:
電子は電荷の他に磁石としての性質(スピン)を有しています。電荷の流れを電流と呼ぶのに対し、スピンの流れをスピン流と呼びます。

(注10)走査型プローブ顕微鏡法:
原子レベルに尖らせた探針を試料表面に1ナノメートル以下の距離になるまで近づけて、探針を試料表面に沿って走査することで表面の形状や電子状態をマッピングする手法です。これにより1ナノメートル以下の分解能で物質表面を観察できます。

 

添付資料

図1 表面に鉄(II)フタロシアニンを吸着させた白金細線
(a) 鉄(II)フタロシアニン分子の構造。(b) 走査型プローブ顕微鏡(注10)により確認した白金表面に吸着した鉄(II)フタロシアニン。凸一つ一つが鉄(II)フタロシアニンの存在を示しており、白金表面に敷き詰められていることが確認された。(c) 細線デバイスの概念図。(d) X線吸収分光結果と (e) 理論計算結果の*印部分の比較により、鉄(II)フタロシアニンが本構造においてスピンを保持していることが確認できた。

 

図2 スピンホール磁気抵抗効果の測定結果
鉄(II)フタロシアニンを吸着させた白金細線デバイスにおける電気抵抗変化の磁場方向依存性 。外部磁場により、鉄(II)フタロシアニンのスピン方向を電流と平行にした時にはスピン移行により抵抗が大きい(条件A)。外部磁場により、鉄(II)フタロシアニンのスピン方向を電流と垂直にした時はスピン移行が起きず抵抗が小さい(条件B)。従って電気抵抗変化は白金のスピン流から鉄(II)フタロシアニンへのスピン移行を示す。