中赤外パルスによる分子内振動励起を用いて電子状態を転換することに成功
- 記者発表
東京大学
発表のポイント
◆電子型強誘電体(注1)である有機分子性固体において、分子間の電子の運動と連動する分子内振動モードを中赤外パルス光によって強く励起することにより、イオン性の強誘電状態を中性の常誘電状態に転換させることに成功した。
◆位相安定な中赤外パルス光を利用したサブサイクルポンプ-プローブ分光(注2)を行うことによって、分子内振動と同期して巨大な分子間電荷移動が生じ、それがイオン性から中性への転換の引き金になることを実証した。
◆本手法は、有機分子性固体の新しい電子状態制御法として活用できると期待される。
発表概要
近年、中赤外領域に存在する振動モードを光励起することによって、物質の電子状態を制御しようとする試みが行われるようになってきました。電子系と強く結合した振動モードを光励起すれば、効率的に電子状態を制御することができると期待されます。有機分子性固体の中には、電子-分子内振動(Electron-molecular vibration: EMV)結合(注3)を介して、分子間の電荷移動と連動する分子内振動を持つ物質が存在します。このような分子内振動を中赤外光で強励起すると、分子間で集団的な電荷移動が引き起こされるため、物質の電子状態が大きく変化する可能性があると考えられます。
東京大学大学院新領域創成科学研究科の森本剛史博士(研究当時大学院生)、宮本辰也助教、貴田徳明准教授、岡本博教授らの研究グループは、電子型強誘電体である有機分子性固体TTF-CA(tetrathiafulvalene-p-chloranil)において、EMV結合を持つ分子内振動モードを中赤外光で強く励起することによって、イオン性の強誘電状態を中性の常誘電状態に転換することに成功しました。位相安定な中赤外パルスと時間幅10 fsの可視極短パルス光を用いたサブサイクルポンプ-プローブ分光を行うことによって、分子内振動と同期して、巨大な分子間電荷移動が生じることを実証しました。また、中赤外ポンプ-第二高調波(注4)プローブ測定の結果と合わせて、中性の常誘電状態への転換が、分子内振動によるイオン性状態と中性状態の波動関数の混成をきっかけとして生じることを明らかにしました。
本研究で用いた手法は、有機分子性固体の電子状態を高速に光制御する新しい方法として活用できると期待されます。
本研究の成果は2021年11月18日付けで、米国科学誌「Physical Review Research」にオンライン掲載されました。
発表内容
研究の背景・先行研究における問題点
光励起によって電子状態や構造ががらりと変化する現象は「光誘起相転移」と呼ばれており、物性科学の新しいパラダイムとして盛んに研究されています。これまで報告されてきた光誘起相転移の多くは、近赤外から可視領域のパルス光を利用して、バンド間遷移を励起した際に生じる光キャリア生成をきっかけとして生じるものでした。最近では、このような電子励起ではなく、中赤外パルス光によるフォノン(格子振動や分子内振動)の励起が、光誘起相転移を引き起こす新しい駆動力として注目を集めています。しかし、振動波形に沿った電子系のダイナミクスを調べるような研究は行われていませんでした。
また、フォノン励起によって高効率に電子状態を変化させるには、フォノンと電子の運動が強く結合している物質を対象とする必要があります。本研究では、そのような系として、有機電荷移動錯体に注目しました。この物質群の中には、EMV結合を介して分子間の電荷移動と連動する分子内振動を持つ物質が数多く存在します。そのような分子内振動を中赤外光で強励起すれば、分子の価数が大きく変調されます。そのため、物質の電子状態転換を引き起こすことができる可能性があります。
研究内容
本研究では、電子型強誘電体である有機分子性固体TTF-CAを対象としました(図1(a))。TTF-CAでは、TTF分子やCA分子の伸縮振動モードが、分子間の電荷移動と強く連動します(図1(b))。
(図1) (a)TTF-CAの中性相とイオン性相。drは相転移に伴って分子間を移動する電荷の大きさ。赤矢印は電子スピンを表す。(b) EMV結合を介した、分子振動による分子間の電荷移動の模式図。-Drは分子間を移動する電荷の大きさ。(c)サブサイクルポンプ-プローブ分光測定の模式図。発表論文(c 2021 CC BY 4.0 License)から改変して掲載。
まず、本研究グループが開発した、位相安定な中赤外パルスと時間幅10 fsの可視極短パルス光を用いたサブサイクルポンプ-プローブ分光法をTTF-CAに適用して、分子内振動励起による電子状態変化を調べました(図1(c))。4 MV/cmの電場振幅を持つ中赤外パルスを照射すると、プローブ光の反射率変化に顕著な振動が現れました(図2(a))。プローブ光の光子エネルギーは、分子価数の変化によってその強度が敏感に変化するTTFの分子内遷移のエネルギーに対応します。そのため、測定された反射率変化は、分子価数の変化を反映したものと考えられます。
(図2)(a)ポンプ光として利用した中赤外パルスの電場波形(赤実線)と中赤外パルス照射後のプローブ光の反射率変化の時間発展(青実線)。反射率変化は、分子価数の変化を反映している。(b)中赤外パルス照射後の近赤外パルス光の第二高調波強度変化の時間依存性。第二高調波強度変化は強誘電分極の変化を反映している。発表論文(c 2021 CC BY 4.0 License)から改変して掲載。
中赤外光の光子エネルギーは、二つの分子内振動モードに共鳴しています。反射率変化に現れた振動構造は、その二つの振動モードの強制振動として再現できることがわかりました。この結果は、中赤外光による分子内振動の励起により、EMV結合を介して分子間の電荷移動の振動が生じたことを示しています。
また、中赤外ポンプ-第二高調波プローブ測定の結果から、分子内振動励起によって第二高調波の強度が約20%減少することが分かりました(図2(b))。この結果は、分子内振動励起によって、イオン性の強誘電状態の約10%が中性の常誘電状態に転換したことを示しています。このようなイオン性-中性転換が生じるのは、EMV結合を介して分子価数が大きく変調された結果、イオン性状態と中性状態の波動関数が混成したためであると考えられます。
社会的意義・今後の予定
本研究では、中赤外パルスによる分子内振動励起によって、イオン性の強誘電状態を部分的に中性の常誘電状態に転換させることに成功しました。今後は、ポンプ光として利用した中赤外パルスの電場強度を増強することによって、完全なイオン性強誘電状態から中性常誘電状態への相転移の実現を目指します。また、TTF分子とCA分子の間の電荷移動遷移に対応する光子エネルギーの極短パルス光をプローブ光として用いたサブサイクルポンプ-プローブ分光や、情報科学的手法に基づいたスペクトル変化の解析を行うことによって、分子内振動励起による光誘起相転移の機構をより詳細に解明したいと考えています。
EMV結合は、多くの有機分子性固体が持つ性質です。そのため、本研究で用いた分子内振動励起による電子状態制御法は、TTF-CAのような中性イオン性転移系の物質だけでなく、有機分子性固体全般に適用できる新しい手法として活用されることが期待されます。
本研究は、日本学術振興会科学研究費助成事業(課題番号:JP25247049, JP18H01166, JP18K13476, JP20K03801, JP21H04988)、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業チーム型研究(CREST)(課題番号JPMJCR1661)の一環で実施されました。
発表雑誌
雑誌名:「Physical Review Research」(2021年11月18日付け)
論文タイトル: Ionic to neutral conversion induced by resonant excitation of molecular vibrations coupled to intermolecular charge transfer
著者:T. Morimoto, H. Suzuki, T. Otaki, N. Sono, N. Kida, T. Miyamoto, and H. Okamoto
DOI番号:10.1103/PhysRevResearch.3.L042028
発表者
森本 剛史(研究当時:東京大学大学院新領域創成科学研究科物質系専攻 博士課程3年/現:株式会社日立製作所)
宮本 辰也(東京大学大学院新領域創成科学研究科物質系専攻 助教)
貴田 徳明(東京大学大学院新領域創成科学研究科物質系専攻 准教授)
岡本 博(東京大学大学院新領域創成科学研究科物質系専攻 教授)
用語解説
(注1)電子型誘電体
物質内の電気分極がある一定の方向に揃っており、その電気分極が外部電場によって反転する物質を強誘電体と呼ぶ。特に、その電気分極が、主に分子(原子)間や分子(原子)内の電子移動によって発生する物質を、電子型強誘電体と呼ぶ。
(注2)サブサイクルポンプ-プローブ分光
ポンプ光(励起光)を試料に照射した後の電子状態の変化を、プローブ光(検出光)の反射率や透過率等の変化を検出することによって調べる手法をポンプ-プローブ分光と呼ぶ。ポンプ光とプローブ光の時間差を変化させることによって、ポンプ光による電子状態変化の時間依存性を測定することができる。本研究のポンプ光は中赤外パルスであり、電子状態変化の検出には、可視極短パルスの反射率の変化や近赤外パルスによる第二高調波発生を用いている。前者にように、プローブ光に極短パルスを用い、ポンプ光の電場波形に沿った応答を電場の周期以下の時間スケールで検出する手法のことをサブサイクル分光と呼ぶ。サブサイクル分光を行うには、ポンプ光の電場波形を常に安定させることと、ポンプ光の電場周期よりも十分に短い時間幅を持つ極短パルス光をプローブ光として利用することが必要である。
(注3)電子-分子内振動(Electron-molecular vibration: EMV)結合
分子内振動によって分子軌道のエネルギーが変化するような分子内振動と電子系の結合をEMV結合と呼ぶ。TTF-CAの場合、分子の伸縮振動によって分子軌道のエネルギーが変化し、TTF分子とCA分子の間の電荷移動が生じる(図1(b))。
(注4)第二高調波
角周波数wの強い光を物質に照射した場合に発生する、倍の角周波数(2w)の光のことを第二高調波と呼ぶ。第二高調波は、空間的に対称性が破れている場合にのみ発生する。本研究では、第二高調波を強誘電分極の検出に利用している。
(注5)有機分子性固体TTF-CA
TTF-CAは、TTF分子とCA分子が交互に積層した擬一次元電荷移動錯体である。室温では、ファンデルワールス力によって結合した中性相にある。温度を下げると転移温度81 Kでイオン性相へと転移する。イオン性相ではTTF分子とCA分子が二量体を形成して、強誘電体となる。転移点で生じる二量体内の集団的な電荷移動が、イオン性相の強誘電分極の主な起源である。